目の前で妻が転落!大パニック
このページは名古屋の宮谷得三さん主宰「登山と油絵のページ」から転載させて頂きました。
イラストも宮谷さんの作品です。
稲ガ谷ルートは雨乞岳の最短ルートで「マイカー日帰り可能」とガイドでは紹介されいた。高原地図の時間表示を見ると登りが1時間50分となっており奥深いと感じていたこの山も意外と近いルートがあったのだ。 湯の山温泉から鈴鹿スカイラインに入り、武平峠を下り稲ガ谷橋を渡ってすぐ右に登山口があり、登山口前の空き地に3台程の駐車スペースがある。週末で満車かと予想していたが、意外や先客の女性二人連れの一台だけだった。 |
![]() |
![]() |
登山口には大きな案内板が立っており、白い登山投函箱に計画書 を入れる。ここでは表示板に雨乞岳2.00Hと書いてあった。 ただ、ガイド本のプロフィールでは、「胸を突く山腹をよじ登るとか、足腰に自信のない人には適さないとか、複雑なルートで初心者だけでの入山は控えたい」と、紹介されていた。 しかし、なんといっても2時間余りで登頂出来るというのは魅力で、天候が崩れる心配もなさそうだし、意気込んで登山を開始したのだが・・・ |
複雑なルートに悪戦苦闘 沢伝いのルートに入ると倒木があちこちに散乱し、荒れた谷という感じだ。 空は梅雨が明けたような晴天なのに杉林の中は薄暗いため目印のテープを探すのに一苦労で何度も足を止め、戸惑いながら沢を渡り返す。せせらぎの音はさわやかだが、ルートを外さないように緊張の連続で、のんびりした山歩きとは程遠いものになった。 とにかく、東雨乞岳との分岐のコルに出るまで予想もしなかった厳しさで、苔むした岩が点在する谷では何度も足を滑らせ、冷や汗のかきどおし。段差や傾斜はきつく踏後も薄いので、すぐルートを踏み外しそうになり、歯を食いしばりながら登っていく。 この案内板の時間表示は正しかったが・・・所々に案内板があり、時間も表示されているが、途中、山頂まで残り30分のところでは残り80分と表示されていた。しかし、どう考えても計算が合わず、誰かが30を80に直したのではないのだろうか。山でそんなマナーの悪い人いるだろうか。 (タバコ捨てる人はよくあるけどなあ・・・) 人の命を守る案内板なのに、いたずらだとしたら悲しくなってくる。 谷を離れ雑木林に入ると斜面ははいよいよきつくなり、足がズルズル滑り、最後には四つん這いになってもがくようにしてよじ登りやっとコルに出た。 ほっとしたと同時に「うわ−きつかった。よく登ったなあ〜」と、思わず嘆息。 |
意外や山頂は静か ここまで来ると眺望も一気にひらけた。ここは東雨乞岳と雨乞岳の中間にあたり、 左に見える雨乞岳を目指し笹原かき分けを進むが、あとはもう極楽気分だ。 山頂に到着すると意外や他の登山者がいない。 ここで昼食をとったが、その間に訪れた登山者は二組だけ。 どうもここは笹に囲まれ狭くて人気がないようだ。 週末で人出も多いはずなのに、みんなどこに行っちゃったと思っていたら、 ほとんどの登山者はとなりの東雨乞岳に集中していた。 持ってきた双眼鏡でのぞくと、大勢の登山者がくつろいでいる様子がよくわかる。 広々して笹も刈り取られてるみたいで、いかにも展望が良さそうなのだ。 「あっちだと、お弁当食べながらでもまわりの山並みが見られるんやね」と妻。 「うん、でもここの方が静かでええやないか」 一度腰を落ち着けると、すぐには動きたくないのだ。 「そぉ?なんか座ると狭くて窮屈な感じやわ」 「6月に登った貝月山や白草山の山頂は広かったから、そう感じるんやて」 「ここは鈴北岳の山頂と感じがよく似てると思わん?」 (・・・そういえば6月最初の日曜日に鈴北岳に登っていたか) 「ああ、あの日の山頂は人が多く身体を小さくしてお昼を食べたなあ」 「せっかく登ったんやで、やっぱり広い方が気分がいいよねぇ・・」 (あっ、やば。これからあっちにも登るつもりだな) 「よしっ、今度登る時は絶対東雨乞岳にしような。決めた!」 「・・・・・・・」 |
事故の大半は下り!! 苦労した登りだったが、ここからでも鈴鹿の山々が一望でき、緊張し通しだった心と身体を癒してくれるからありがたい。十分休息し気分もリラックスさせてから、いよいよ下山にかかった。 同じルートなのに、登りと下りでは目に映る景色が全然違うので、テープを確認しながら下るのだが、沢まで下りて来ると、足元ばかりに気を取られ、ついテープを見落とし、ルートを外れてしまうのだ。 「そっちじゃないわよ・・・!」と、背後から妻の声が飛ぶ。 「あかんなあ・・・またルートを外しそうになった」 ![]() 沢を横断しなけらばいけない所でも転石沿いに、すーと真っすぐ下りてしまう。 過去にも高賀山や日本コバで同じような失敗をして道を迷い、冷や汗かいているのにちっとも懲りない。 何度もそんな事を繰り返しながら1時間ほど経ち、急な段差のある所で道が行き止まりになった。 「あれ−、登りの時にこんな崖あったかなあ?」 ここで悪魔が待ち構えていたのだ。 正しいルートは数メートル後の左側に下りる道がついていたのだが、うっかり見落として通り過ぎてしまった。振り返りすぐ気がついたのでそこまで戻って下りれば何もアクシデントは起こらなかった。 しかし・・・足元の段差はわずか2〜3メートルで、しかも右手の届くところに岩の壁を這うようにして太い木のツルが下まで垂れ下がっていた。 それにつかまりスルスルッと下りられる。一瞬の判断で、そう感じた。そこで・・・ 「こっちの方が近道やし、大丈夫、ツルをロープ代わりで下りれる」 「そうやね。下りれそうやね」 妻も後についていて恐がる様子もなかったし、特に危険とも感じなかった。 (鎌ヶ岳でも以前こんな崖を下りていたし・・・) |
妻の握力の弱さ・・・ 両手で木のツルをつかみ、腕の力を抜かないように体重移動して、垂直な岩の壁を慎重に下り河原に着地した。自分が苦もなく下りられたから妻も出来るものと疑いもしなかった。 「ツルをしっかり握っとれば大丈夫やで・・・」と下から声をかけた。 「ハイ」と言ってツルにつかまり、岩壁に足をかけた次の瞬間、信じられない光景が目の前で起こった。 「あっ!」という叫び声と共に妻の身体が水平になって落下していく。 「ドスッ!」「えっ・・・?なんだ」 鈍い音がして仰向けのまま背中と頭を河原に打ちつけた。 「なんで手を離すんや・・・!」声が出かかったが、すでに落ちている。 落ちた場所は転石の上だ。とっさに駆け寄ったが痛がる様子もなく、上向きに倒れたまま無表情に目を見開いている。 事故だ−!失神したのか泣き叫びもしない。怪我が心配で上半身を抱き起こしながら、 「大丈夫か・・・」と大声で呼びかけた が、まるで反応がない。青ざめた顔をよく見ると、おでこに小さく赤い血のようなものが付着している。まさか・・・と妻の頭を下から抱えていた自分の手に目をやると、間違いなく血だ。後頭部を見ると髪の間から血が滲んでいる。 急いでタオルで血拭き取ったが止らない。傷口を見ようとしたが、束ねた髪の毛に隠れよく分からないのだ。この事がさらに不安を拡大した。 「あぁ〜頭が切れ血が出とる・・・大変やぁー!!」 |
転落・・・パニック! もし、出血がこのまま止らなかったら・・・ ぐったりした妻を抱きかかえて完全にパニックに陥った。すぐにうつ伏せにさせ、沢の水で何度もタオルを濡らし頭の血をぬぐった。よく見ると・・・背負っていたザックにも血が飛び散っているからかなり強く頭を打って出血している。 自分の不注意から妻にもしもの事があったら、悔んでも悔みきれない。 今までの楽しい山歩きが一転、悪夢のような我が人生で最大のピンチに陥ってしまった。 助けを求めようにも、このルートは朝、駐車場で顔を合わせた女性のパーティが一組いただけで、確かもう下山しているはずだ。 この時間に誰かが通りかかる可能性はない。自力で助けるしかないが、どうすればいいんだ。 妻をおぶって下まで運ぶか。それとも自分が先に駆け下りて救助を呼ぶ方が早く助けられるのか。 いや待て・・・妻だけ残してその間に万が一の事があったら。 ・・・だめだ・・・だめだ。やはり一緒にいてやらなければ。 頭の中は混乱して死の恐怖が襲ってきた。 うわああ・・・・どうしよう ![]() 黙ってうつむいている妻を手当てしながら、祈るようにしてタオルを何回も沢の水で洗い、傷口あたりを冷やし続けるしかなかった。 このまま動けず暗くなったら二人とも遭難する。 無駄と分かっていても、誰か来ないかとあたりを見回すが静かで薄暗い森の中にまったく人の気配はない。 なぜこんな人の来ないルートを選んだのだろう。救急用品は何ひとつ持っていないし、止血や手当て方法も出来やしない。 こんな生半可な気持ちで、山なんか始めるんじゃなかったと悔んだ。山歩きを始めて2年。初めて大きな危機に直面し、頭の中は真っ白になってしまった。 |
妻の言動に・・・絶句! 後頭部の血はまだ滲み出てくる。傷口が見えないので余計不安で胸が張り裂けそうだ。 「頼むから死ぬな!」 このアクシデントをどうやって切り抜けられるのか・・・ 10分以上は経っただろうか。うつ伏せになっていた妻が急に身を起こしかけた。 そして上半身をガバッと起こして、開口一番・・・ 「私、ど−したの?」 「ど−したのって、崖から落ちて頭を怪我したんだよ」 「ここから落ちた・・・?全然覚えて−へんわ」 「頭をけがして出血したから冷やしてるけど痛くないのか」 「あっ、ちょっと痛い。でもほんとに落ちたの?」 転落のショックで分からないのだろうか。しかし・・・・・ どうも様子がおかしい。夢から覚めたような顔つきで呆然としているのだ。ひょっとしたらと・・・ 「ここの山は、どこかわかるか」 「ここの山?・・・ここはえ−と・・・え〜と」 (えっ、!?まさか) 「じゃあ、なんでここに来たのか、分かるか」 「なんで来たか?なんでって・・・なんでかなあ」 「ふたりで 登山に来たんやないか」 「・・・・・・・」 「今、下山している途中やないか」 「・・・・・私なんにも思い出せんわ」 もう涙目になっている。意識が戻り痛がる様子もないので安心したのもつかの間、今度は頭を打ったショッで、記憶喪失になってしまったのか。 妻も事の重要さにうすうす気がついたのか、不安そうな顔をする。 ![]() 「私、崖から転落したの?」 早く病院へ連れて行き、精密検査を受けなければ大変な事になるかも知れない。 もしこのまま妻の記憶が戻らなかったら、と考えたら泣きたい気持ちになった。 一刻も早く・・・頭の傷口を濡れタオルで押さえ、ハチマキをきつく巻き、下山の準備を整え立ち上がった。 幸い足や腰の方は怪我がないようなので一人で歩けそうだ。 念のため、もう一度と妻の顔を正面に見て言った。 「俺の名前は分かるか?」 「・・・・ミヤタニトクゾウ」 「じゃあ、自分の名前は」 「・・・・・ミヤタニウタコ」 ああ・・・妻が戻ってきた、よかった。 涙を浮かべながら懸命に答える妻を見て、思わずその場で抱きしめた。 |
悲劇は免れた・・・しかし 転落に至るまで、要因はいくつもあった。 第一に、下山途中に注意力が散漫になり、ルートを少し外れた事。 第二に、引き返さず自分を基準にして崖を下りられると判断した事。 第三に、妻が下りる時、下で補助してやらなかった事。 しかし、最大の原因は、計画段階でこのルートを選ぶ時、難易度が高いのに短時間で登れると、山を甘く見てしまった事だ。 転落時、妻の頭の打ちどころが悪ければ、とり返しのつかない悲惨な結果を招いていたかもしれなかった。 幸い病院の治療では5針縫う程度以外、脳に異常もなく事なきをえたが、一時は遭難事故寸前まで覚悟し、一生忘れる事が出来ない登山になった。 (その後の登山では、必ず救急用品はザックに入れるようにした) |
1999.10.8転載